「男性であること、女性であること」(創世記2:18~25)
「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 (創世記2:18)
メッセンジャー:坂本献一師
女性の創造は男性の場合とは異なっていました。男性は土の塵から造られました。しかし、女性は男性のからだの一部から造り出されたとあるのです。すなわち、男性と女性は別々に離れて存在しているのではなく、共に在るものとして創造されたのです。「ふさわしい助け手」という言葉は、まさにそのことを教えているはずです。
「ふさわしい助け手」とはどのようなことでしょうか。「ふさわしい」ということは「互いに向き合っている」という言葉です。(自分の子ども、友人、他の人と向き合うということは大切なことです。私たちは時として大切な場面で向き合わずに過ぎてしまうということがあります。) 男性と女性は互いに向き合って生きる者として造られているのです。向き合って存在しているということは、相対するということでもあります。また逆に似ているということでもあります。つまり向き合っているということは、互いに異なる存在として相補うとともに、共通する存在として協調しつつ生きるということではないでしょうか。また、「助け手」とは手伝い、助手ということではありません。聖書では主ご自身が「助け手」と言い表されています(詩70:5、参照ヘブル13:6)。同伴者、味方ということです。人生の行路をともに歩む者です。家庭の中で夫婦が、社会の中で男女がそのようなものとして共に生きること、それが現代に課せられている課題のように思うのです。
女性は男性のあばら骨から取られたとあります。あばら骨は胸を守る骨です。胸には心臓が、そして肺があります。血液の循環、呼吸をつかさどる大切な部分です。前回、「神の息吹を吹き込まれて人は生きるものとなった。」と学びました。すなわち、胸の骨から女性が創造されたということは、「神に吹きこまれた息吹で生きることを助ける」ということではないでしょうか。家庭の中での妻の存在、社会の中での女性の生き方が、夫を、男性を神の前に正しく立たしめると言って過言ではないはずです。
ペテロは言います。「妻をいのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)。男性と女性は、神のかたちとして生きる、神の息吹に生かされて生きるものとして互いに助け合い、祈り合って生活する、人生の伴走者なのです。
(坂本献一牧師の説教原稿原文より。)
(※注 上記の文はあくまで説教原稿原文であり、実際のメッセージの要約されたものです)
(メッセージを録音したテープがありますので、実際のメッセージを聴きたい方は教会にご連絡ください)