「もうひとりの自分に出会う」(マルコ16:1~8)
メッセンジャー:坂本献一師
仮に私たちが主の復活の現場に立ち会ったらどうするでしょうか。主の復活を心から感謝し、躍り上がって喜ぶでしょうか。「主はよみがえられました。」と大声で言い広めようとするでしょうか。福音書が伝える弟子たちの様子は、それとは少し違っているように思われるのです。
空の墓において天使たちが主の復活を知らせた時、女たちは恐ろしくて逃げ去り、誰にも話さなかった、とあります。本来のマルコ福音書はこの部分で唐突に終わっています。復活という出来事をそのまま受け止める力を彼女たちは持ってはいませんでした。現実の様々な悲しみの中に押しつぶされ、その悲しみを吹き飛ばす力がありませんでした。主の十字架の苦しみ、辱め。自分たちがイエスに抱いていた期待が打ち砕かれた失望感。弟子たちの信仰なき姿。イスラエルの人々の敵意。どんなに素晴らしいニュースの悲しみに押しつぶされてしまった心には届かない。後代の加筆と言われますが、9節以降を見ると、「信じなかった」という言葉が繰り返しでてきます。
私たちも時として同じ経験をしないでしょうか。色々な悲しみや困難の中で、物事を否定的にしか見られない。神の力を実感できないというか、自分の信仰が空回りしているような、そんな状況です。それが私たちの現実であり、飾ったり、隠したりすることはないはずです。
しかし、同時に聖書は弟子たちの違った姿を伝えています。大喜びをして(マタ28:8)、うれしくて(ルカ24:41)、非常な喜びを抱いて(ルカ24:52)、「主はよみがえってくださった」と言い広めずにはおれない弟子たちです。全く別人であるかのような姿です。というより、現実の悲しみに押しつぶされ身動きが取れなくなっている弟子たちの、その内側の内側にもうひとりの自分がいて、主の復活を喜び、「キリストはよみがえられた」と宣言し、よみがえりの主の力に生かされている。そのもうひとりの弟子、もうひとりの自分が主の復活を知らせ、世界宣教の派遣されていったのではないでしょうか。
私たちにとって、復活の主にお会いするということは、実はもうひとりの自分に出会うということではないでしょうか。現実の問題で押しつぶされて空回りしているようなこの私。しかし、その私の内側の内側にもうひとりの自分がいて、その自分が主に顔を向け、よみがえりの主の力に生かされることができる。そして、その力は、私の生活全体にも及んで、私の人生を変え続ける。そこにしっかりと目をとめることではないでしょう。私の内にある、もうひとりの自分。「主よ、私のこの内なる人を強くしてください。」(エペソ3:16)と祈ろうではありませんか。
(坂本献一牧師の説教原稿原文より。)
(※注 上記の文はあくまで説教原稿原文であり、実際のメッセージの要約されたものです)
(メッセージを録音したテープがありますので、実際のメッセージを聴きたい方は教会にご連絡ください)