宣教題:「この世の光として」
「向かい合う存在として」(創世記3:1~12)
メッセンジャー:坂本献一師
エバは蛇の誘惑を受けて、食べてはならない木の実を食べてしまいました。そして、アダムにもそれを食べさせました。
一見、女が悪いようですが、本当にそうなのでしょうか。蛇がエバに話しているその時、アダムはどこにいたのでしょうか。間違いなくエバのそばにいたはずです。そして、蛇の話を聞いていたはずです。しかし、彼はそれに対して見て見ぬふり、聞いていないふりをしていたように思うのです。沈黙していたのです。大切なところで沈黙をし、見てみぬふりをするアダム。この責任は大きいのではないでしょうか。
エバはアダムの「ふさわしい助け手」として創られました。「ふさわしい」とはどういうことでしょうか。「ふさわしい助け手」とはどのようなことでしょうか。「ふさわしい」ということは「互いに向き合っている」という言葉です。男性と女性は互いに向き合って生きる者として造られているのです。ところが、アダムはエバと向かい合って生きていない。(そして、神と向かい合って生きていない。)ここに問題があるのです。本当に大事な場面で、「エバ、誘惑に陥らないようにしなさい。木の実を食べるのはいけないことだ。」と叫ばなくてはならないはずなのに、エバと、そしてエバが遭遇している危機と向かい合うことを避けているのです。
私たちも、大事な場面でアダムのように沈黙してしまうことはないでしょうか。問題からにげてしまうことはないでしょうか。私たちは「世の光」としてそれぞれのところに置かれているはずです(マタイ5:16)。「世の光」として生きる、というのは何も大袈裟なことではありません。夫婦の間で、家族の中で、職場で、大切なときに見て見ぬふりをするのではなく、沈黙するのではなく、問題としっかりとかかわっていく。責任を他人になすりつけない。そのような生き方も「光」としての生き方です。(もちろん、沈黙しないということは不用意に自分の考えを人に押し付けることではないでしょう。黙って祈っていく時も必要かもしれません。Ⅰテモテ2:8。でも、とにかく、問題から逃げないで、愛する人々としっかり向かい合って生きることを忘れてないことです。)
もう一度、向かい合うことについて考えて見ましょう。夫婦が、そして家族が、職場の仲間が。自分の思いを語り、相手の言葉に耳を傾け、そんな中から、実りある人間関係が生まれてくるのではないでしょうか。
(坂本献一牧師の説教原稿原文より。)
(※注 上記の文はあくまで説教原稿原文であり、実際のメッセージの要約されたものです)
(メッセージを録音したテープがありますので、実際のメッセージを聴きたい方は教会にご連絡ください)